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ヲタのご託宣 Σ(;゚Д゚)ハァ?!

ヲ タ 、
襲
第壱話 来
WOTAKU ATTACK NEON GENESIS ευαγγελιον
『新世紀エヴァンゲリオン』のタイトルは、
正しくは『新・創世記エヴァンゲリオン』?
新世紀エヴァンゲリオン(以下「エヴァ」とします)の訳語にある『NEON GENESIS』は、どう頑張っても『新世紀』とは翻訳できません。そもそも『GENESIS』そのものが『創世記』を指し示す単語です。正しく訳すのであれば『新・創世記』となる訳です。
新約聖書からユダヤ密教、あるいはヘブライの伝承の教義までをも含めてエヴァの世界観を重ね合わせると、主要登場人物の相関関係が見えてきます。
聖書『創世記』の冒頭の第1章〜第2章は、現実世界にそのまま援用しますと支離滅裂です(笑)が、あえてユダヤ教・ヘブライの伝承までをも含めたユダヤ・キリスト教の複数の教義のうち多数派のものを統合的に解釈し、時系列を追いながら解説します。
ちなみに思考言語は、日本語と英語をベーシックにしています。決して「バームクーヘン」(独語)でも、「カムサハニムダ」(朝鮮(韓国)語)でもありません。 ヾ(^^;
なお、「EVE」を「イヴ」と表記すると「エヴァ」と分別し辛いので、あえて「イブ」と記しています。
また、「カムサハニムダ」ネタがわからない方は、漫画「エヴァンゲリオン・アンソロジー」をお買い求めください(って、私は某角川書店の諜?!:笑)。
創世記6日目に赤い土よりリリスはアダムと共に生まれ(それ以前のバビロニアの伝承では、リリスの出自はバビロニアの悪魔とされています)、アダムの最初の妻として、神よりアダムと共に全ての全地の支配を命じられます。
しかし、ユダヤ教の男尊女卑の教義故に、アダムと対等であるという意識を持つリリスという存在は神から切捨てられてしまいます。またリリス自身、アダムと対等であるという意識故に、その異教の教義(注:バビロニアの伝承によれば、リリスの出自は悪魔:前述)、つまり男尊女卑を拒絶します。これは、神とリリスの双方が、お互いに拒絶を望んだことを意味しています。
神は、リリスのエデン出奔の際、あらん限りの説得を試みました(この際、神がリリスに対して遣わしたのが「天使(Angel)」です)が、結局リリスはそれに応じませんでした。その報復として、リリスは神より、自らが生む一日に数百人の嬰児を自ら殺していくという一時堕胎の罰を強いられることになります。そのあまりにも酷な仕打ちにリリスは耐えきれず、一時は神と和解するものの、結局はエデンに戻ることはありませんでした。
エデンを出奔したリリスはその後、悪魔達(サタン)に魂と身体を委ね、様々な悪魔(デーモン=エヴァの世界観では「THE BEAST」)を生み続けます。それでもリリスの心は、アダムを求め続けていたのです。
なお、異説として、「失意のリリス紅海投身自殺説」(ぉぃ)もありますが、エヴァの世界観にはこの説は相応しくなく、援用できません。何故なら、人類(=第十八使徒リリン)の母たる存在が消滅してしまうからです(笑)。
ユダヤの男尊女卑の教義のためとはいえ、嫁に見捨てられ(笑)残されたアダムはたまったものではありません。失意のアダムに対し神は、アダムを世界の動物の名付け親としその中から新たなパートナーを見付けさせようとしましたが、アダムの寂しさは消えませんでした。
結果、アダムは、更に神により創られた(アダム自身の肋骨から生み出された)従順なイブを妻として迎えることとなりますが、イブが蛇(悪魔)の狡猾な唆しによって知恵の実を口にしてしまったがために、エデンの楽園より追放されてしまいます。ここで神が恐れたのは、アダムとイブの2人が知恵の実を口にしたことではなく、さらに生命の実を食べることだったとされています。
アダムを唆した罰として、イブは出産の痛みを与えられ、アダムは日々の食物を、苦痛による代償として受けることとなり、初めて労働を強いられることになります。
ちなみに、蛇は、忌まわしきものとして、地を這うことを永遠に定められたとされています。
アダムとイブは、エデン追放後、一旦離縁をして、それぞれ放浪の旅に出ます。
リリスはといえば悪魔(サタン)と結ばれ、更なる悪魔(デーモン)を産み続けても、彼女自身の心は埋りません。
そんな時にリリスとアダムは再び出会い、お互いの心をぶつけあうかのように求め合います。百戦錬磨の性技を身に付けたリリスにアダムは虜にされ、結果的にユダヤの民以外の人間達や新たな悪魔(デーモン)を生み出していきます(注:リリスの子どもたちのことを、ユダヤの民以外の人間も、悪魔も総称として、リリン(リリム)と呼んでいます)。その結果、全地には、人と悪魔がひしめき合うという状態が作られてしまいました。
神はこれを見て、リリスを断罪します。人と悪魔を惑わす大淫婦と烙印を押されて、またもリリスとアダムは引き裂かれ、結局アダムはイブの元に帰ってしまいます。
アダムとイブの子ども達がカインとアベルで、『選ばれた』ユダヤの民(=選民)の祖とされています。
ここで一旦整理し直しましょう。
○リリス
アダムの先の妻=アダムと対等の立場を貫く
* ユダヤの民以外の祖でありユダヤの民(=選民)を惑わす悪魔(デーモン)を生み出す者でもある
○イブ
アダムの後添え=アダムの分身=アダムとは従属関係にある
* ユダヤの民(=選民)の祖
リリスは結局、黙示録の大淫婦としてユダヤ・キリスト教的に終生の敵の烙印を押されてしまい、かつ、イブに愛する者(アダム)を奪われた者と解することができる訳です。
これにより新約聖書の世界観からは「リリス」という概念が取り払われ、イブという偽りの祖がアダムの妻となっています。
アダムの先妻(リリス)の生んだ子どもなのか、後添え(イブ)の生んだ子どもなのかの差は、どちらかといえばユダヤ教(後のキリスト教)の「信仰者」としての正当性を峻別するためのもので、現実的には宗教観念上の異教徒排除には非常に合理的な説明手段として機能するようになっています。
なお、『創世記』第1章では、アダムそのものが両性具有者であり、リリスはアダムから生まれしアダムの子であるという解釈も可能となっています。また、『創世記』にいうリリスの夫アダムと、イブの夫アダムが同一固体であるという確証は実はどこにもありません。何故なら、アダムが再生したと解釈し得る説もあるからです。
冒頭において【 聖書『創世記』の冒頭の1章〜2章は支離滅裂 】としたのはこのためです。
最初の人間アダムが再生するものとして解釈し、エヴァの主要登場人物に当てはめると、次の通りとなります。
○ 第一使徒アダム = アダム原型
○ 第十七使徒渚カヲル(タブリス) = アダムの魂
○ 綾波レイ = リリスの魂
(注:劇場版第25話『Air』、第26話『まごころを、君に』に説明されている通りですから、異論を唱える方はないでしょう)
○ 碇シンジ = ジーザス・クライスト(リリンとしてのアダムの再生=現アダム)
○ 惣流・アスカ・ラングレー = イブ
○ 碇ゲンドウ = 悪魔(サタン)
○ 碇ユイ = 固体生命としての体はともかくも魂は『神』(注:おっとびっくり!特大飛躍:笑)
サードインパクトの結果、聖書にいう「生命の実」を食べたに等しい結末となっています
綾波レイがリリスであるという設定は、裏返せば相対的に惣流・アスカ・ラングレーが劇中における現代のイブであるという解釈に落ち着きます。何故なら『新・創世記(=NEON GENESIS)』というタイトルを冠する作品において、最終的な謎解きともいえる劇場版で、ラストにおいてアスカとシンジの2人が最初に固体生命としての形に戻ったことでも説明できますし、レイとシンジの関係(もっといえば、碇ユイのサルベージに失敗し出てきた固体生命が綾波レイだということ)も説明できてしまいます。
碇シンジが、イブではなくリリスより生まれし者という聖書の教義と合致した設定や、碇シンジが神に対する生贄であると同時に彼が世界のその後を決め、更に後の世に繋がる種をイブとともに残すアダムでもあるという意味付けは、ジーザス・クライストの役割そのものなのです。また、碇シンジが搭乗するエヴァンゲリオン初號機にロンギヌスの槍が突き立てられることも、決して不自然ではありません。
つまり、リリス(=綾波レイ)とイブ(=惣流・アスカ・ラングレー)のどちらの『人間』をアダム(=碇シンジ)が選ぶのかで人類の将来が全て決まるのです。これは『全ては碇の息子(=現アダム)に委ねられた』というセリフ(このセリフは劇中では、キール・ロレンツが発したものです)からも読み取ることができます。
なお、普遍的な人間という意味において、碇シンジは現代の新約聖書の観点からいえばアスカ(=イブ)を選択するのが妥当だといえますし、劇中の現実としてレイ(=リリス)の提唱する『全ての融合』を捨て、アスカ(=イブ)が提唱する『他者からの自己に対する否定を含みながらも個として存在する自我』を受け入れた訳です。
しかし、エヴァにおけるゼーレのいう死海文書に、所謂『死海写本』に相当する内容が含まれていたとすれば、碇シンジが綾波レイ(=リリス)を選択することが、シナリオとしては妥当だった筈です。何故なら、『死海写本』の内容には創世記のシナリオの一つとして、アダムがリリスをユダヤ教の戒律に従わせるという方法論が記述されているからです。つまり、『リリンでありながら神を語るゼーレ』のシナリオと思惑は、『碇(ゲンドウ=悪魔:サタン)の息子』によって、打ち砕かれた訳です。
碇シンジはアスカが好み?それともレイ?
○ 結論 : アスカ
○ 理由
レイに対しては、恋愛感情やリビドーは一切ありません。何故ならレイの肉体は、母親(のクローン)だからです。雑巾を絞る姿を見て「おかあさんみたいだ」と言ってみたり、父ゲンドウと楽しげに会話する姿に嫉妬するのは、シンジのエディプス・コンプレックスの現れです。
新世紀エヴァンゲリオンの劇中に現れるシンジのレイへの愛情表現は、全て母性に向けて子どもから発信されるものなのです。
また、レイの精神はリリス(劇中、確固たる確証はないにしろ、状況証拠では第2使徒)ですが、人類(第18使徒リリン)は、タブリス(=渚カヲル)の説明では「リリスより生まれしリリン」となってることから、大局的に言えばシンジ(=人類)の母親であるわけです。従って、どのような精神的衝動に駆られようが、エディプスの範囲であるのは明らかです。
これに対してアスカはといえば、劇場版も含めたエヴァの全ての世界の中で、唯一シンジを否定する存在です。「バカシンジ」「あんたばかぁ?」「シンジのくせに」などの一連のセリフはもとより、サードインパクト勃発により開始された「心の補完(=「心の壁」が全くない状態)」の最中も、アスカはシンジに対して「あなたとだけは絶対に死んでも嫌っ!」と、心の壁のある通常世界と全く同じシンジに対する価値観を示し続けています。
この第二者否定は、一見すると「心の壁」の表れであるようにも捉えられますが実は全く逆で、「心の壁」があるからこそ、対面した際に誰しもが第二者としてのシンジに「優しくする」訳です。エヴァに描かれた全ての世界の中で、首尾一貫してシンジを全く同一の価値観で捉えていたのは唯一アスカだけで、シンジもそれに気付いています。
劇場版完結編「まごころを、君に」(I need you.)の最後のアスカのセリフが庵野監督直々の指示で
「あんたなんかに殺されるのは、まっぴらよ」
から
「気持ち悪い」
に変更されたことは劇場版エヴァ製作時の有名なエピソードですが、その理由は、『L.C.Lの海で一つになった心の補完が、人としてのかたちを取り戻してもそのまま続いているという証拠を、極端に表現したかった』のだと私は考えています。
心の補完の最中、シンジは救いをアスカにも求めますが、只一人、アスカだけはそれを拒絶します(=「あなたとだけは絶対に死んでも嫌っ!」)。そのアスカに対してシンジは、「いつものように僕を怒鳴ってよ」とそれでも救いを求め続け、それが叶えられないことを悟ると、最後にはアスカの存在そのものを否定しよう(=殺そう)としています。
「まごころを、君に」(I need you.)のラストで、元の「かたち」に「還る」ことを選択したシンジは、固体生命としての形に戻った直後、傍らに横たわるアスカが意識を取り戻した後に『自分を否定する』ことを恐れ頸を絞めます。が、全てを悟って逆に慈しむようにシンジの頬に手を当て撫でるアスカ。シンジはそれを契機に再び「自己否定」に入り泣き崩れてしまいます。しかし、アスカはそれを察し、『救いを求める』シンジの望み通り、【『いつものように』シンジを馬鹿にするために】「気持ち悪い」と呟くことによってシンジに対して救いをもたらすという図式です。
このように捉えると、劇場版「まごころを、君に」のエンディングでは、価値観を共有でき、その上で相手の人格の全て(=「自分が考える自分」「他人が考える自分」「他人から考えられていると思う自分」「誰しもが気付かない自分」の4つの精神観念部分の全て)を受入れてしまっているところから、平素は表面上対立していた筈のアスカが、「碇シンジ」という自分自身の存在を行為としてアスカから否定されることを回避するためアスカを殺そうとするシンジに対して、はじめてアスカがそれを受け入れてしまうあたり、シンジとアスカという2つの精神は、お互いの存在の全てをこの時点で許容しあっているのです。そして、心の補完の最中、シンジがアスカに対して求め続けた「碇シンジという個に対する表面的な否定」(=シンジからアスカに求める愛情許諾)を、「気持ち悪い」という「言葉」とは正反対の意味としてアスカがシンジにぶつけるところで、エヴァの世界は終焉を迎える訳です。
従って、シンジはアスカの方が好みということは勿論、この二人は相思相愛と解釈できる訳です。また、これがシンジ(とアスカ)のエディプスからの脱却の現れでもある訳です。つまりは「純愛」と「自立(自律)」でしょうか。
『碇シンジはアスカが好み?それともレイ?』は、実はそれが新世紀エヴァンゲリオンの世界観の全てを言い尽くすものであり、庵野監督が同作品を通して最も表現したかった主題であると捉えられると結論付けても、決して過言ではないでしょう。
最後に、「気持ち悪い」の台詞を発したアスカが『ホウタイ姿になっているのは設定ミス』とのご意見がありますが、私はそうは思いません。第壱話でストレッチャーに乗せられてケイジに連れてこられたレイを思い出してください。そう、ホウタイ姿なんです。
エンディングのアスカのホウタイ姿は、この母性としてのレイのいでたちを準えたもので、アスカの母性への可能性を表現していると思われます。精神破綻し自殺した母は肯定するものの、そのことによって自らが背負った不幸を我が子に及ぼしたくないという潜在意識が、この時までのアスカ自身の支配的な概念です。つまり、母親は肯定しても、自らが母親になることは否定し続けている訳です。
しかし、エンディングでアスカがレイを準えた姿で登場したということは、固体生命としての形を維持したままでシンジの全てを受入れたとともに、自らの母性を初めて肯定したと解釈することができるでしょう。これを創世記に準えれば、アスカはレイに代わり人類の母性(=エヴァ)となったのです。
庵野監督の公式な談によれば、「エヴァのエンディングは視聴者自ら決めて良い」とのことです。皆様のご解釈は、いかがなものでしょうか。